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  COM編集部
  情報 立川和正
 

「情報」、というコトバが重要視され、多用されるようになって久しい。

今の世のちょっとした「キーワード」になっているし、誰もが躊躇することなく「情報」を欲しがる。私にしても、その日常を、ケイタイ、パソコン、テレビ等の情報機器に、かなり左右されている。ルス電のお世話にもなる。

朝のご祈念が済んで、前夜のルス電を聞く。「○○です。おかげさまで主人が、来週にも退院できることになりました……」。『あーそれはよかった、おかげいただいた』、さて朝食を、とキッチンにいく。…昼のご祈念になって、ふっと思い出して…我ながら、お礼が遅れて後味わるい。

自分は、いったい情報を得て、どうしようというのだろうか。

よくよく考えてみると、情報を知って、早く安心したいという思いが第一である。

情報は、である。なのに、実はだけを求めている。は二の次になっている。退院の知らせを聞いて、当人と家族がどれだけ喜んでいるかという情(こころ)まで受けていない。また、それを受けて、即座にご神前に行かない私の情(こころ)…。ご無礼で鈍な私ということに臍(ほぞ)を噛みながらも、情報機器の危うさを思う。報だけが先行して、肝心の情を置いてけ堀にしている。

人は、自分なりの判断を下したり態度を決めたりする、その素材として情報機器の報を鵜呑みにし過ぎていないか。もっともっと、自分自身のこころに直結した目、耳、手触り、直感に真剣さを持つことが大事と思う。特に、祈る、願う、祈念することは情報機器にはなじまない。

結果的にウソであってもかまわない。自分の五感とそれを支える祈りを第一にしていこうと思う。

 

クョスコニョ    [1] 
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